相互不信社会とコンパクトシティの行方 ~ Vol.2
2021.12.02
VOL.02 地方消滅による無居住化地域の拡大と財政難
 長期人口推計をどう眺めてみても、この先少子高齢化とこれによる人口減少からは逃れる術もないのは明白である。

 極端な移民政策を執らない限り、全国的には無居住化地域が拡大することになる。

 無居住化地域が拡大するということは、空家が爆発的に増加するということであり、空家対策にも限度があるということを自覚する必要がある。

 コンパクトシティとして短期的には中心市街地の活性化を図ることができるとしても、中長期的には持続的に地域社会を維持することは困難と思われる。

 ところで、コンパクトシティ構想とは、本来的には経済成長に伴って沸き起こったマイホームブームにより拡大した市街地を、少子高齢化時代に合わせていかに縮小均衡させるかということではないかと考える。

 つまり、伸びきったライフラインを少子高齢化に伴う人口減少時代に、これまでと同じように維持管理することは困難であるからである。

 実際、夕張市においても財政破綻以後、急激な人口減少に悩まされ、そのことによって水道・下水道料金を倍増させたが、受益者負担の増大により、更に人口減少を加速させたのである。

 住民からすれば、人口減少により行政サービスの質量が低下しているにもかかわらず住民負担が増えるため、生活のためにやむなく転出することになり、実際にもそうなったのである。

 残った住民は、どちらかといえば経済的弱者が中心であり、そのことにより社会福祉関連の負担が多くなり、更に転出圧力が高まることになる。

 一度こうなると最早手の打ちようがなく、負のスパイラルに陥り、抜け出すことが困難となる。

 夕張市は、財政破綻の一番手であったため、全国的にも有名になり、また東京都から派遣された若き職員が市長となって夕張再生に向けて刻苦奮励しているが、このような市町村が何倍にも増加したら、中央政府としても手の打ちようがなくなるのではと思っている。

 財政破綻が珍しかったからこそ政府も東京都も支援することができたが、あくまでも例外として考えるべきと考える。

 つまり、中央政府も恒常的に財政難に悩まされており、赤字国債に頼る財政運営がこれまでと同じように続けていける可能性が少ない以上、夕張市のような例が増えたらお手上げということになるからである。

 そういう意味では、夕張市は幸運であったと思わざるを得ない。

 二番手・三番手の財政破綻市町村が今後出現する可能性を否定できないが、夕張市と同じような対応はできないであろうし、世間の耳目を集めることもないのではと思わざるを得ない。

 大衆社会とは、目先のことには鋭く反応するが、将来のことにはあまり興味を持たない社会であるような気がするのである。

 本質的に物事を考えない大衆社会は、自滅の道を歩むしかないと思うのは、考えすぎなのであろうか。
2021.12.02 10:09 | 固定リンク | 鑑定雑感
相互不信社会とコンパクトシティの行方 ~ Vol.1
2021.11.25
VOL.01 再開発ビル青森市アウガ落城 
 東奥日報(2月16日)及び区画再開発通信(3月15日区画整理・再開発対策全国連絡会議発行)によれば、青森市が全国に先駆けてコンパクトシティを提唱し、中心市街地活性化を目指し、青森駅前地区に建築された第二地区再開発ビルである『アウガ』が、商業ビルとしての経営に失敗し、これを救済するため全館を公共化するということになったとのことである。

 全国的には、商業再開発が破綻するケースが相次いでいるが、青森よ、お前もかという思いにさせられた。

 ところで、前記によれば、全ての床を青森市が買い取ることで第三セクターの赤字を解消し、残債務は青森市が放棄することで最終決着したとのことである。

 この第二地区は平成13年に完成し、百貨店をキーテナントとして誘致したがそれもかなわず、5階から上は青森市が図書館等を入居させ、地下から4階までの商業床の大半は第3セクターが買取り、商業経営の収支で買取代金の返済をする予定であったが、バブル崩壊や人口減少・少子高齢化等もあって客足が伸びず、赤字が累積し、行き詰まったことから、商業ビルとしての機能をあきらめ、役所機能を移す方針を決めたとのことである。

 時代が悪いといえばそれまでであるが、長期人口減少時代に突入していることを考えると、コンパクトシティ構想にも一定の限度があることを思い知らされた。

 これまでの街づくりで一番問題であると思うのは、サプライサイド的な発想で、入れ物を造ることが先で、利用は後から考えるという姿勢にあることである。

 本当のところは、コンパクトシティに名を借りた公共事業であり、完成後の利用や維持管理のあり方を先送りした結果ということではないかと思うのである。

 形を変えた公共事業であるから、そこには必ずしも住民の意思が十分に反映されたとはいえなかったのではないかと思われる。

2021.11.25 17:55 | 固定リンク | 鑑定雑感
空家とコンパクトシティと試される住民意識 ~ Vol.3
2021.11.18
VOL.03 試されるのは住民意識と民主主義

 これまで成長経済の流れに乗ってきた日本人は、口では民主主義と言いつつも、その実は国家の庇護や国家がもたらすであろう利益にぶら下がってきたに過ぎないと思っている。

 受益を声高に主張するが、負担については避けようとしている。

 上は国会議員から、下は市町村議員まで、選挙の時は住民の負担軽減を公約に掲げるが、負担の増大を公約にすることはない。

 問われるべきは、受益かさもなくば負担かではなく、受益と負担のバランスをどう取るかということではないかと考える。

 行政サービスを十分に受けたいが、負担は嫌というのは、民主主義的とは言えない。

 我がマチの行政サービスの質と量を決めるのは、住民の意識と考える。

 負担が嫌なら、行政サービスの質・量を減らすしかないが、選挙の時には何か魔法の杖でもあるかのように錯覚を与え、負担は最小・受益は最大と思わせるが、そんなことはまやかしであると見抜けない住民(国民)にも、責任の一端はあるのではと思うのである。

 都市計画は、いわば国家の最小単位である市町村の将来像を図示したものと考えるが、それが絵に描いたモチにすぎなかったことが、50年もかからないうちに明らかとなってしまった。

 日本人は、戦術において比較的優れた能力を発揮するようであるが、戦略となると、その能力を発揮できないようである。

 都市計画は、まさに都市の長期戦略を図示したものともいえるが、結局50年・100年後にどういう都市にしたいのか、明確な戦略も持たずにここまで来てしまったのではと思うのである。

 もっとも、都市計画策定に当たって、住民との十分な合意形成がなされたのかどうかは判然としない。

 経験的には、縦覧と称して、都市計画案を見せてやるという上から目線の計画であり、そこには地域住民の十分な合意形成がなされたとは到底思えないのである。

 そうでなければ、2階程度の一般住宅しか見当たらない地域を中高層住居専用地域に指定し、中高層建物の建築計画が持ち上がれば日照権だの眺望権だのと後出しジャンケンのように苦情を言うなんてことはないはずであるからである。

 地域住民にとっては、中高層住居専用地域に指定されたことの意味なんて、恐らく知る由も無かったからこそ、マンションなんてケシからんと大騒ぎするのである。

 もっとも、全て行政に責任がある訳ではなく、責任を自覚しない議員と、そういう人を選んだ住民や民主主義とは何かを十分自覚しないまま大人になった我々の責任も大きいと言わなければならないと思うのである。

 コンパクトシティ構想も、都市計画の一つであるとすれば、コンパクトにした後どうなるのか、20年・30年もすれば、マチそのものが消滅しかねない可能性を前提に、持続可能な都市とは何かを住民自らが考える必要があると思うのである。

 私はマチを出て行くが、後は残った人間で考えてくれというのは、無責任という他はないが、現実はそうなっているのである。

 コンパクトシティ構想も、ある意味重要と考えるが、これまでの思考の延長で計画するのであれば、失敗は目に見えていると思わざるを得ない。

 マチ作りで試されているのは、実は行政の手腕ばかりではなく、住民の意識であると考える。

 民主主義とは、自らを治める意識という認識がなければ、都市計画はもたないと思うのである。

 国民の上から下までパラサイト意識に染まった日本に、本当の民主主義が花開くのか、まさに試されようとしていると自覚すべきであると考える。

 鑑定士もそろそろ国家に何をしてくれるのか問うのではなく、自らが何をできるのか、言葉を換えれば国家・国民の負担を最小にするためには何をどうすべきかを自らに問うべき時代にいると認識すべきである。

 パラサイト意識・パラサイト体制から決別できる時代が来ることを、念じずにはいられない。

(2016年3月 月刊「不動産鑑定」掲載/「空家のコンパクトシティと試される住民意識」)

2021.11.18 11:43 | 固定リンク | 鑑定雑感

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