不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ― Vol.5
2021.09.30
VOL.05 市場は因果律で動く?
市場は不完全であるが故に、現実の市場では日夜熾烈な競争が展開されている。
このような状態に対処するため、市場分析の手法が数多く編み出され、多くのコンサルタントがその腕をふるっている。
筆者にとって、市場分析の手法は馴染みが薄く、なかなか理解できないでいる。(単に頭が悪いせいか?)
いずれにしても、市場分析を提供する専門家は、数式を駆使し、特定の市場参加者が勝ち抜けるような方法を提供しているが、市場分析とは結局のところ不完全市場の弱みにつけいり、いかに超過利潤を獲得させるかということではないのであろうか。
言葉をかえれば、不完全市場を更に不完全にさせるためのツールということではないのかと思うのである。
仮に、完全市場を目指すというのなら、短期的にはともかく、中・長期的には市場が合理的に機能し、誰も超過利潤を得ることができなくなるということである。
果たしてそれで市場参加者は満足するのであろうか?
人間の欲望は際限がないので、モアアンドモア(もっと・もっと)とありとあらゆる資源を喰い尽くしながら自己の欲望を肥大化させていくのが常である。
欲望から離脱した聖人君子ばかりの社会では、利潤動機がないので市場経済は否定される。
よって、超過利潤のない市場が出現するのは夢のまた夢である。
アメリカの社会は、まさにそのようになっているが、市場原理主義は最大多数の最大幸福への道を歩む近道といえるのか、疑問は尽きない。
個人的には、金が力の源泉であり、金がなければ権力に近づけない以上、政策に影響を与えることができないので、少数の最大幸福と最大多数の不幸の構図に変わりはないと思うのである。
ところで、不動産鑑定士は、不完全市場である不動産市場に成り代わって、一人一人の頭の中に完全市場を想定して市場価格を決定するという、まさに神の見えざる手の役割を果たすことが求められている。
しかし、前述したように、鑑定業界にも完全市場を阻害する
①外部経済・外部不経済の存在
②情報の非対称性
③予想と現実のミスマッチ
がある。
更に、不動産と競合する他の財が存在する市場にも、前記の阻害要因がある。
したがって、限られた時間・費用・能力等の中で、完全市場を阻害する要因を全て取り除くことは困難であり、不完全市場の穴を埋めることは出来ないと思うのである。
にもかかわらず、日々鑑定評価業務を行なっている。
完全市場に成り代わるのは、客観的に見て不可能な筈なのに、何故に業務が可能かといえば、評価手法という魔法の杖があり、その手法の適用にあたっては、暗黙の了解として「市場は因果律で動いている」というコンセンサスがあるからであると思っている。
不動産市場は因果律で動いていると想定しない限り、市場の説明は出来ない。
原因があるから結果があり、その原因を基に価格が決まると擬制しない限り、評価は出来ない。
市場が因果律で動くなら、ブラックスワンは舞い降りては来ない。
当然ながらリーマンショックも起きない。
市場が大きく変動するのは、想定外の事情であり、市場の失敗ではないと開き直るしかないのである。
もっとも、不動産鑑定士の市場価値は今や無いに等しく、派遣労働者並みとなっているが、社会も不動産鑑定士の社会的価値を良く知っているので、「神の見えざる手」であることを期待はしていない。
業務の中身より、安さが全てである。
完全市場より不完全市場の超過利潤を得たい依頼者の悪魔のような囁きに挫けそうになる。
所詮どう頑張ってみても、不完全市場の阻害要因を取り除く能力なんて誰にもありはしないのであるから、目を瞑って業務を引き受けようかと心惑わされる日も無い訳ではない。
この業界で30年余りにわたって大過なく過ごすことが出来たのは、誘惑に負けない強い心があった訳ではなく、単に臆病だったからにすぎない。
個人的心情はともかく、市場は因果律で動いているという暗黙の前提について、これで良いのか反省の上からもう少し検討してみてはどうかと思うのである。
不動産市場が因果律で動く特別な市場であるというのなら、誰かそのことを証明して欲しいと願わざるを得ない。
もっとも、証明できれば不動産鑑定士は不用である。
個人的には、その場・その場の言い逃れに、自分に愛想が尽きかけている。
自虐私観(?)からの脱却を願いつつも、またしてもウットウしい話となった。
年寄りの戯言と免じて、読者諸兄のご容赦を願うものである。
市場は不完全であるが故に、現実の市場では日夜熾烈な競争が展開されている。
このような状態に対処するため、市場分析の手法が数多く編み出され、多くのコンサルタントがその腕をふるっている。
筆者にとって、市場分析の手法は馴染みが薄く、なかなか理解できないでいる。(単に頭が悪いせいか?)
いずれにしても、市場分析を提供する専門家は、数式を駆使し、特定の市場参加者が勝ち抜けるような方法を提供しているが、市場分析とは結局のところ不完全市場の弱みにつけいり、いかに超過利潤を獲得させるかということではないのであろうか。
言葉をかえれば、不完全市場を更に不完全にさせるためのツールということではないのかと思うのである。
仮に、完全市場を目指すというのなら、短期的にはともかく、中・長期的には市場が合理的に機能し、誰も超過利潤を得ることができなくなるということである。
果たしてそれで市場参加者は満足するのであろうか?
人間の欲望は際限がないので、モアアンドモア(もっと・もっと)とありとあらゆる資源を喰い尽くしながら自己の欲望を肥大化させていくのが常である。
欲望から離脱した聖人君子ばかりの社会では、利潤動機がないので市場経済は否定される。
よって、超過利潤のない市場が出現するのは夢のまた夢である。
アメリカの社会は、まさにそのようになっているが、市場原理主義は最大多数の最大幸福への道を歩む近道といえるのか、疑問は尽きない。
個人的には、金が力の源泉であり、金がなければ権力に近づけない以上、政策に影響を与えることができないので、少数の最大幸福と最大多数の不幸の構図に変わりはないと思うのである。
ところで、不動産鑑定士は、不完全市場である不動産市場に成り代わって、一人一人の頭の中に完全市場を想定して市場価格を決定するという、まさに神の見えざる手の役割を果たすことが求められている。
しかし、前述したように、鑑定業界にも完全市場を阻害する
①外部経済・外部不経済の存在
②情報の非対称性
③予想と現実のミスマッチ
がある。
更に、不動産と競合する他の財が存在する市場にも、前記の阻害要因がある。
したがって、限られた時間・費用・能力等の中で、完全市場を阻害する要因を全て取り除くことは困難であり、不完全市場の穴を埋めることは出来ないと思うのである。
にもかかわらず、日々鑑定評価業務を行なっている。
完全市場に成り代わるのは、客観的に見て不可能な筈なのに、何故に業務が可能かといえば、評価手法という魔法の杖があり、その手法の適用にあたっては、暗黙の了解として「市場は因果律で動いている」というコンセンサスがあるからであると思っている。
不動産市場は因果律で動いていると想定しない限り、市場の説明は出来ない。
原因があるから結果があり、その原因を基に価格が決まると擬制しない限り、評価は出来ない。
市場が因果律で動くなら、ブラックスワンは舞い降りては来ない。
当然ながらリーマンショックも起きない。
市場が大きく変動するのは、想定外の事情であり、市場の失敗ではないと開き直るしかないのである。
もっとも、不動産鑑定士の市場価値は今や無いに等しく、派遣労働者並みとなっているが、社会も不動産鑑定士の社会的価値を良く知っているので、「神の見えざる手」であることを期待はしていない。
業務の中身より、安さが全てである。
完全市場より不完全市場の超過利潤を得たい依頼者の悪魔のような囁きに挫けそうになる。
所詮どう頑張ってみても、不完全市場の阻害要因を取り除く能力なんて誰にもありはしないのであるから、目を瞑って業務を引き受けようかと心惑わされる日も無い訳ではない。
この業界で30年余りにわたって大過なく過ごすことが出来たのは、誘惑に負けない強い心があった訳ではなく、単に臆病だったからにすぎない。
個人的心情はともかく、市場は因果律で動いているという暗黙の前提について、これで良いのか反省の上からもう少し検討してみてはどうかと思うのである。
不動産市場が因果律で動く特別な市場であるというのなら、誰かそのことを証明して欲しいと願わざるを得ない。
もっとも、証明できれば不動産鑑定士は不用である。
個人的には、その場・その場の言い逃れに、自分に愛想が尽きかけている。
自虐私観(?)からの脱却を願いつつも、またしてもウットウしい話となった。
年寄りの戯言と免じて、読者諸兄のご容赦を願うものである。
(2014年12月 Evaluation no.55掲載/「不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ―」)
不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ― Vol.4
2021.09.24
VOL.04 後から講釈の不都合な真実と健忘症国家
狭義の市場にしろ、広義の市場にしろ、市場において成立する価格は、需給動向を反映して日々変動している。
少なくとも、市場が見える狭義の市場においては、間違いなくそういえる。
ところで、現物が取引される市場、つまりリアルな市場において、短時間に急激な価格変動が起きることは少ない。
仮にそういう状態になったら、国民経済は大混乱に陥ることになる。
他方、株式市場や為替市場においては、1秒間に1,000回の売買がされるともいわれ、急激な価格変動も良く見受けられる。
こういう市場では、神の手をもってしても、どうにもならないのではと思うのである。
予めプログラムされた方法により、世界中で秒速で取引されているが、その結果は誰にも予測はできない。
そうであるのに、評論家・有識者等の専門家は、あたかも一定の法則に従って市場価格が変動しているかのような解説をしている。
仮に一定の法則で市場価格が変動するのであれば、全ての会社の売り上げ・利益は、ともに増加しても減少することはないはずである。
しかし、現実的にはそうなっていないことは、会社の決算書を見れば一目瞭然である。
にもかかわらず、価格変動がどうして起きたのか、はたまたこれからどうなるのか、もっともらしく解説する評論家等は後を絶たない。
(レースが終わった後の競馬の解説と同じで誰も気にしていない?)
評論家ないしその道の専門家と自称する人達の解説と、せめて一年間の市場の変化の実際がどうであったのかをトレースする評論家等が出現してもいいのではと思うのであるが、残念なことに、過去は終わったことにして、自らの意見・解説を事後的に検証する動きも意思も見られない。
故に、数多の専門家の過去の発言と実際の現象が相互に検証されることはないが、有り難いことに世間も忘れやすく、過去の発言を根掘り葉掘り蒸し返されることは少ない。
仮にあっても、人の噂も75日という通り、3ヶ月もすれば、誰も興味を示さなくなる。
かくて、余程のことがない限り、化けの皮が剥がれることはない。実に有り難い国である。
そういう意味で、筆者も健忘症の多い国民性に感謝しなければならないのかもしれない。
そもそも神の手になれるかもしれないと思ったこと自体が恐れ多いことなのに、そのことに気がつくこともなく、また、大過なく30年余を鑑定世界で過ごしてこれたのは、奇跡なのかもしれないと思う今日この頃である。
尚、蛇足ながら、アメリカの著名な経営コンサルタントが「申し訳ない御社をつぶしたのは私です」(カレン・フェラン著、神崎朗子訳、大和書房)という著作の中で、さまざまなモデルや理論を駆使してコンサル業務を行なってきたが、約30年のキャリアのなかで、これまで適用していた経営理論の多くが間違っていることに気づいたと痛烈に自己批判している。
その経験や実例は同書に詳しく解説されているが、その前書きの中で一流といわれている経営コンサルタントに最も欠けていたのは、実社会での経験であると指摘していることは傾聴に値する。
一読をおすすめしたい。
狭義の市場にしろ、広義の市場にしろ、市場において成立する価格は、需給動向を反映して日々変動している。
少なくとも、市場が見える狭義の市場においては、間違いなくそういえる。
ところで、現物が取引される市場、つまりリアルな市場において、短時間に急激な価格変動が起きることは少ない。
仮にそういう状態になったら、国民経済は大混乱に陥ることになる。
他方、株式市場や為替市場においては、1秒間に1,000回の売買がされるともいわれ、急激な価格変動も良く見受けられる。
こういう市場では、神の手をもってしても、どうにもならないのではと思うのである。
予めプログラムされた方法により、世界中で秒速で取引されているが、その結果は誰にも予測はできない。
そうであるのに、評論家・有識者等の専門家は、あたかも一定の法則に従って市場価格が変動しているかのような解説をしている。
仮に一定の法則で市場価格が変動するのであれば、全ての会社の売り上げ・利益は、ともに増加しても減少することはないはずである。
しかし、現実的にはそうなっていないことは、会社の決算書を見れば一目瞭然である。
にもかかわらず、価格変動がどうして起きたのか、はたまたこれからどうなるのか、もっともらしく解説する評論家等は後を絶たない。
(レースが終わった後の競馬の解説と同じで誰も気にしていない?)
評論家ないしその道の専門家と自称する人達の解説と、せめて一年間の市場の変化の実際がどうであったのかをトレースする評論家等が出現してもいいのではと思うのであるが、残念なことに、過去は終わったことにして、自らの意見・解説を事後的に検証する動きも意思も見られない。
故に、数多の専門家の過去の発言と実際の現象が相互に検証されることはないが、有り難いことに世間も忘れやすく、過去の発言を根掘り葉掘り蒸し返されることは少ない。
仮にあっても、人の噂も75日という通り、3ヶ月もすれば、誰も興味を示さなくなる。
かくて、余程のことがない限り、化けの皮が剥がれることはない。実に有り難い国である。
そういう意味で、筆者も健忘症の多い国民性に感謝しなければならないのかもしれない。
そもそも神の手になれるかもしれないと思ったこと自体が恐れ多いことなのに、そのことに気がつくこともなく、また、大過なく30年余を鑑定世界で過ごしてこれたのは、奇跡なのかもしれないと思う今日この頃である。
尚、蛇足ながら、アメリカの著名な経営コンサルタントが「申し訳ない御社をつぶしたのは私です」(カレン・フェラン著、神崎朗子訳、大和書房)という著作の中で、さまざまなモデルや理論を駆使してコンサル業務を行なってきたが、約30年のキャリアのなかで、これまで適用していた経営理論の多くが間違っていることに気づいたと痛烈に自己批判している。
その経験や実例は同書に詳しく解説されているが、その前書きの中で一流といわれている経営コンサルタントに最も欠けていたのは、実社会での経験であると指摘していることは傾聴に値する。
一読をおすすめしたい。
不動産鑑定士と神の見えざる手 ― 市場は因果律で動く? ― Vol.3
2021.09.16
VOL.03 不動産鑑定士は神の見えざる手
話が少しずれてしまったが、あらためて不動産の鑑定評価に関する基本的考察を数10年ぶりに読み返してみた。
今更ながら理念の高さに驚く他はないが、その理念の高さ故に実行不可能かなと思わざるを得ないこともある。(筆者の単なる能力不足のせいか)
ところで、基本的考察では、不動産の適正な価格は、他の一般財と異なり、何人にも識別され得るかたちで市場に存在してはいない。
したがって、不動産の適正な価格を求めるためには、鑑定評価の活動に依存せざるを得ないことは当然であり、これが鑑定評価活動の必要性が生じている所以であるとしている。
そして、鑑定評価によって適正な価格に到達するためには、形式的要件(対象の適確な認識・資料の収集・整理・分析・解釈・判断等)を満たした上で、実質的要件を満たさなければならないとしている。
つまり、判断の当否は、これらの各段階のそれぞれについての鑑定評価の主体の能力いかん及びその能力の行使の誠実さのいかんにかかわるものであり、また、必要な関連諸資料の収集整理の適否及びこれらの諸資料の分析解釈の練達の程度 に依存するものであるとしている。
続いて、鑑定評価は、何人でもこれを行いうるというものではなくて、「精密な知識と豊富な経験 及び適確な判断力をもち、さらにこれが有機的かつ総合的に発揮できる練達堪能 な専門家によってなされるときに、はじめて十分に合理的であって、客観的に論証できるものとなる」としている。
知らないということはいいことで、受験勉強当時の筆者も、何の懸念も抱かず、そうかと思ったのである。
あれから30年余り、今更ながら思うのである。
経験はあると思うが、果たして精密な知識はあるといえるか?適確な判断力はあるか?(自分はともかく他人は認めているか?)、これらを有機的かつ総合的に発揮できる練達堪能な専門家といえるか?
これらの能力の一つでも欠けていれば、鑑定評価の主体となることに疑問符がつくことになる。
基本的考察に値するような鑑定評価の主体となる資質に欠けている点は無いのかと自問すれば、当然そのような境地には到っていないと断言できるのである。
とすれば、自分が日々行なっている鑑定評価は、とても「十分に合理的であって客観的に論証のできるものとなる」とはいえないことになる。
それでも日々の糧を得るがために、練達堪能な専門家のフリをして、ある意味世間を誤魔化してというか、世間の誤解を良いことに、業務を行なっていることに忸怩たるものを感じざるを得ない。
いずれにしても、基本的考察の言わんとすることは、鑑定評価とは即ち神の手になり代わって市場を明らかにすることにほかならないのでは、と思うのである。
その意味において、筆者個人としては神の見えざる手になり損なった(というより、そんな能力はないというべきか)というほかはない。
神の手への道は険しく遠いと実感している。
話が少しずれてしまったが、あらためて不動産の鑑定評価に関する基本的考察を数10年ぶりに読み返してみた。
今更ながら理念の高さに驚く他はないが、その理念の高さ故に実行不可能かなと思わざるを得ないこともある。(筆者の単なる能力不足のせいか)
ところで、基本的考察では、不動産の適正な価格は、他の一般財と異なり、何人にも識別され得るかたちで市場に存在してはいない。
したがって、不動産の適正な価格を求めるためには、鑑定評価の活動に依存せざるを得ないことは当然であり、これが鑑定評価活動の必要性が生じている所以であるとしている。
そして、鑑定評価によって適正な価格に到達するためには、形式的要件(対象の適確な認識・資料の収集・整理・分析・解釈・判断等)を満たした上で、実質的要件を満たさなければならないとしている。
つまり、判断の当否は、これらの各段階のそれぞれについての鑑定評価の主体の能力いかん及びその能力の行使の誠実さのいかんにかかわるものであり、また、必要な関連諸資料の収集整理の適否及びこれらの諸資料の分析解釈の
続いて、鑑定評価は、何人でもこれを行いうるというものではなくて、「精密な知識と
知らないということはいいことで、受験勉強当時の筆者も、何の懸念も抱かず、そうかと思ったのである。
あれから30年余り、今更ながら思うのである。
経験はあると思うが、果たして精密な知識はあるといえるか?適確な判断力はあるか?(自分はともかく他人は認めているか?)、これらを有機的かつ総合的に発揮できる練達堪能な専門家といえるか?
これらの能力の一つでも欠けていれば、鑑定評価の主体となることに疑問符がつくことになる。
基本的考察に値するような鑑定評価の主体となる資質に欠けている点は無いのかと自問すれば、当然そのような境地には到っていないと断言できるのである。
とすれば、自分が日々行なっている鑑定評価は、とても「十分に合理的であって客観的に論証のできるものとなる」とはいえないことになる。
それでも日々の糧を得るがために、練達堪能な専門家のフリをして、ある意味世間を誤魔化してというか、世間の誤解を良いことに、業務を行なっていることに忸怩たるものを感じざるを得ない。
いずれにしても、基本的考察の言わんとすることは、鑑定評価とは即ち神の手になり代わって市場を明らかにすることにほかならないのでは、と思うのである。
その意味において、筆者個人としては神の見えざる手になり損なった(というより、そんな能力はないというべきか)というほかはない。
神の手への道は険しく遠いと実感している。