不動産鑑定評価の今日的課題 ~ Vol.3
2024.05.31
VOL.03 3.鑑定評価における技術とは何か
鑑定評価において必要な技術とは、一体どういうものなのであろうか。
鑑定評価に必要なのは判断力であり技術は必要はないのであろうか。
それともある程度の技術がなければ判断力は十全のものにならないのであろうか。
ここで鑑定評価に必要な技術とは一体何なのか考えてみたい。
鑑定評価は建築・土木・測量・化学・農業・林業等に関する技術的な知識の他に、法律解釈・判断という法技術的な側面、更には経済分析・市場分析等という経済分野に関する分析技術能力も必要とされる。
ところが、試験科目はこれらの技術的能力や分析能力を問う構成にはなっていない。
また、鑑定評価基準は般若心経の如く、いくら読んでもこれだけでは実際の鑑定評価はできない。
つまり、基準はあくまでも考え方の基本理念を示したもので、実際の作業に即使用可能なマニュアルとはなっていない。
したがって、各分野の専門的なことは机上で考えるだけである。
一般的な特に文科系出身の不動産鑑定士には実際に設計したり測量したりする能力も経験もない。
また、数学・統計学等を駆使して市場分析や経済分析する能力もない。
但し、ごく一部ではあるが、これらの技術・能力を備えている人も見受けられるが、普通の鑑定事務所でこれらの技術的能力を身につけることは不可能に近い。
私に出来ることはせいぜい講釈を垂れるだけで、実務能力はない。
したがって、表面的には先生といって立ててくれるが、陰ではバカにされるだけである。
まァ、時給千円から二千円程度にしかならない簡易鑑定ばかりやっている状態では、無理からぬことではある。
社会は冷徹なもので、不動産鑑定士の評価は鑑定報酬に具体的に表われている。
日雇い人夫並み、いやそれ以下の報酬で働かされている不動産鑑定士の技術・能力は無きに等しく、評価に値しないということであろうか。
話はそれてしまったが、個人的には評価に必要な技術というものを明確に意識したことはなく、また、これらについて実地に訓練されたこともない。
鑑定評価において必要な技術とは、一体どういうものなのであろうか。
鑑定評価に必要なのは判断力であり技術は必要はないのであろうか。
それともある程度の技術がなければ判断力は十全のものにならないのであろうか。
ここで鑑定評価に必要な技術とは一体何なのか考えてみたい。
鑑定評価は建築・土木・測量・化学・農業・林業等に関する技術的な知識の他に、法律解釈・判断という法技術的な側面、更には経済分析・市場分析等という経済分野に関する分析技術能力も必要とされる。
ところが、試験科目はこれらの技術的能力や分析能力を問う構成にはなっていない。
また、鑑定評価基準は般若心経の如く、いくら読んでもこれだけでは実際の鑑定評価はできない。
つまり、基準はあくまでも考え方の基本理念を示したもので、実際の作業に即使用可能なマニュアルとはなっていない。
したがって、各分野の専門的なことは机上で考えるだけである。
一般的な特に文科系出身の不動産鑑定士には実際に設計したり測量したりする能力も経験もない。
また、数学・統計学等を駆使して市場分析や経済分析する能力もない。
但し、ごく一部ではあるが、これらの技術・能力を備えている人も見受けられるが、普通の鑑定事務所でこれらの技術的能力を身につけることは不可能に近い。
私に出来ることはせいぜい講釈を垂れるだけで、実務能力はない。
したがって、表面的には先生といって立ててくれるが、陰ではバカにされるだけである。
まァ、時給千円から二千円程度にしかならない簡易鑑定ばかりやっている状態では、無理からぬことではある。
社会は冷徹なもので、不動産鑑定士の評価は鑑定報酬に具体的に表われている。
日雇い人夫並み、いやそれ以下の報酬で働かされている不動産鑑定士の技術・能力は無きに等しく、評価に値しないということであろうか。
話はそれてしまったが、個人的には評価に必要な技術というものを明確に意識したことはなく、また、これらについて実地に訓練されたこともない。
不動産鑑定評価の今日的課題 ~ Vol.2
2024.05.23
VOL.02 鑑定評価作業における技術的進歩
鑑定評価作業をサポートする事務機器の進歩は目覚ましいものがある。
30年位前までは、評価書は手書きのものが多かった。
ワープロが発明されてからはワープロによる評価書が主流となった。
それでも当時は地価公示の評価書がワープロで作成されることに否定的であった。
今考えればお笑いである。
当時の国土庁も鑑定協会もトクトクと地価公示の評価書は手書きでなければダメだと言い張っていたのである。
今はコンピュータである。
早いしチェックもし易いとのことで、当時とは180度回転し、手書き評価書は厳禁である。
当時、誰がこのような時代が来ると予想できたであろうか。
人間とはかくもいい加減な存在であると思わざるを得ない。
鑑定世界でなくとも、身近に例はある。
それは法務局の図面である。
20年位前までは、図面のコピーは厳禁であった。
当時としても、納得のいく合理的説明はなかった。
図面はすべてトレーシングペーパー(懐かしい言葉である)を使用し、定規と鉛筆でなぞるのである。
補助者の重要な仕事である。
私も法務局で要領良く図面をトレースすることに精を出した。
短時間に大量の分筆図や建物図面をトレースするのは大変である。
不器用な人では時間がかかりすぎるし、見落としも多く、何度も法務局に通うことになる。
時代が変わり、今はコピー機で一発であり、技術・経験は不要である。
最近は更に進化し、インターネットにより法務局備付の地図をプリントアウトすることも可能となった。
絶対に図面はコピーさせないと頑張った当時の法務省の役人の思考は、一体何だったのか。
何時の時代でも、合理的な根拠も示さずダメダメと言っていた人間が、何時の間にかコロット前言を翻し、何事も無かったかのように行動していることを見るにつけ腹が立つ。
話が横道にそれたが、反省のないところや失敗のないところに技術の革新はない。
前述のように、鑑定評価作業を取り巻く事務環境は技術の進歩のお陰で様変わりした。
手書きタイプからコンピュータへ、算盤から電卓・コンピュータへ、手紙からFAX、FAXからメールへと変わったが、鑑定評価の本質的な部分で進歩と言える部分があったかと問われれば、疑問を呈せざるを得ない。
もっとも私の能力のなさを棚に上げての話だが、周辺の状況を見ても、本質的な進歩の形跡は見られない。
鑑定評価作業をサポートする事務機器の進歩は目覚ましいものがある。
30年位前までは、評価書は手書きのものが多かった。
ワープロが発明されてからはワープロによる評価書が主流となった。
それでも当時は地価公示の評価書がワープロで作成されることに否定的であった。
今考えればお笑いである。
当時の国土庁も鑑定協会もトクトクと地価公示の評価書は手書きでなければダメだと言い張っていたのである。
今はコンピュータである。
早いしチェックもし易いとのことで、当時とは180度回転し、手書き評価書は厳禁である。
当時、誰がこのような時代が来ると予想できたであろうか。
人間とはかくもいい加減な存在であると思わざるを得ない。
鑑定世界でなくとも、身近に例はある。
それは法務局の図面である。
20年位前までは、図面のコピーは厳禁であった。
当時としても、納得のいく合理的説明はなかった。
図面はすべてトレーシングペーパー(懐かしい言葉である)を使用し、定規と鉛筆でなぞるのである。
補助者の重要な仕事である。
私も法務局で要領良く図面をトレースすることに精を出した。
短時間に大量の分筆図や建物図面をトレースするのは大変である。
不器用な人では時間がかかりすぎるし、見落としも多く、何度も法務局に通うことになる。
時代が変わり、今はコピー機で一発であり、技術・経験は不要である。
最近は更に進化し、インターネットにより法務局備付の地図をプリントアウトすることも可能となった。
絶対に図面はコピーさせないと頑張った当時の法務省の役人の思考は、一体何だったのか。
何時の時代でも、合理的な根拠も示さずダメダメと言っていた人間が、何時の間にかコロット前言を翻し、何事も無かったかのように行動していることを見るにつけ腹が立つ。
話が横道にそれたが、反省のないところや失敗のないところに技術の革新はない。
前述のように、鑑定評価作業を取り巻く事務環境は技術の進歩のお陰で様変わりした。
手書きタイプからコンピュータへ、算盤から電卓・コンピュータへ、手紙からFAX、FAXからメールへと変わったが、鑑定評価の本質的な部分で進歩と言える部分があったかと問われれば、疑問を呈せざるを得ない。
もっとも私の能力のなさを棚に上げての話だが、周辺の状況を見ても、本質的な進歩の形跡は見られない。
不動産鑑定評価の今日的課題 ~ Vol.1
2024.05.17
VOL.01 不動産鑑定の世界は不思議ワールド
振り返ってみれば、鑑定評価の世界に入って早30年になろうとしている。
受験勉強に苦しんだあの頃の思い出はホロ苦い。
個人的には不動産と縁のない世界から飛び込んだため、最初は戸惑うことが多かった。
それまでは、10分の1ミリから数百分の1ミリの精度が要求される技術の世界で仕事をしていたため、精度の基準がない世界は恐怖でもあった。
価格形成要因とは何かをテキストでは覚えていたが、現実の世界は似て非なるものに感じられた。
まして格差率は一体誰が何を基準に決め、どのように検証してきたのか皆目検討もつかないシロモノである。
当時どうして格差率が決まるのか全く理解できないので、少ない文献を漁ったが、どの本にも格差率がどのように決まるのかは書いていなかった。
謎は深まるばかりであった。
他方、修行先の先生は地価公示の幹事であったため、分科会の評価員の評価書のチェックを随分やらされたが、その内容たるや不思議ワールドの連続であり、頭の悪い駆け出しの見習いにとっても極めて荷の重い仕事でもあった。
チェックと言っても出来るのは計算チェックのみで、後は誤字・脱字の類である。
それにしても同一事例を使用しているのに、標準化補正・地域格差等の整合性のなさには全く驚きであった。
一例を挙げると、角地の補正が+3~+7、二方路の補正が+1~+10と極端にかけ離れている他、地域格差もバラバラであるのに比準価格はA鑑もB鑑も5%以内に納まっている。
これは一体どういうことなのか。
何か仕掛けがあるのか、それとも悪い夢を見ているのか、日夜悩んだものである。
1年位すると、結局評価者のモノ差しがバラバラで、特に基準はないということが解ってきた。
モノ差しがバラバラであるから、相互にその内容をチェックすることはできないし、意味のないことである。
メートル・尺・ヤード等の測定単位はバラバラであるが、換算率は決まっているので相互にそのチェックは可能である。
しかし、鑑定評価の世界では、評価者のモノ差しの基準がないので、評価そのものを第三者がチェックし、その妥当性の検討や誤差の指摘はできない。
技術の世界では考えられない鑑定ワールドが広がっていたのである。
技術の世界から飛び込んだ私にとって、この世界は新世界であり新発見の連続であったが、他方、技術の世界のように検証ができないので、どこまでやっても不安の連続で、ノイローゼになりかかった時期があった。
その時に思ったのは、自分にはこの仕事は向かないのではということであった。
評価とは、つまるところ思う・思わない・良い・悪いを各自好きな数字を並べて議論するものであり、余程常識からかけ離れた数字を使わない限り第三者がその当・不当を論じたり証明することはできないものであるということである。
このような漠然とした不安定な世界は技術の世界から見れば容認できないし、まして技術革新とは縁の遠い世界である。
まがりなりにも数百分の一ミリの精度を要求される世界を見てきた私にとって、受け入れ難い世界と感じていたのも事実である。
結局2年の実務経験で鑑定世界に別れを告げ、土地区画整理コンサルをやっている公益法人に転職したのだが、数年を経ずしてまた鑑定世界に戻ってしまった。
それが良かったのか悪かったのかは今もって良く解らない。
生活できたのだからそれで良しとするか、それとも幾ばくかの良心を切売りしたことに対して自責の念を持ち続けるかは、今暫く答えを出せないでいる。
振り返ってみれば、鑑定評価の世界に入って早30年になろうとしている。
受験勉強に苦しんだあの頃の思い出はホロ苦い。
個人的には不動産と縁のない世界から飛び込んだため、最初は戸惑うことが多かった。
それまでは、10分の1ミリから数百分の1ミリの精度が要求される技術の世界で仕事をしていたため、精度の基準がない世界は恐怖でもあった。
価格形成要因とは何かをテキストでは覚えていたが、現実の世界は似て非なるものに感じられた。
まして格差率は一体誰が何を基準に決め、どのように検証してきたのか皆目検討もつかないシロモノである。
当時どうして格差率が決まるのか全く理解できないので、少ない文献を漁ったが、どの本にも格差率がどのように決まるのかは書いていなかった。
謎は深まるばかりであった。
他方、修行先の先生は地価公示の幹事であったため、分科会の評価員の評価書のチェックを随分やらされたが、その内容たるや不思議ワールドの連続であり、頭の悪い駆け出しの見習いにとっても極めて荷の重い仕事でもあった。
チェックと言っても出来るのは計算チェックのみで、後は誤字・脱字の類である。
それにしても同一事例を使用しているのに、標準化補正・地域格差等の整合性のなさには全く驚きであった。
一例を挙げると、角地の補正が+3~+7、二方路の補正が+1~+10と極端にかけ離れている他、地域格差もバラバラであるのに比準価格はA鑑もB鑑も5%以内に納まっている。
これは一体どういうことなのか。
何か仕掛けがあるのか、それとも悪い夢を見ているのか、日夜悩んだものである。
1年位すると、結局評価者のモノ差しがバラバラで、特に基準はないということが解ってきた。
モノ差しがバラバラであるから、相互にその内容をチェックすることはできないし、意味のないことである。
メートル・尺・ヤード等の測定単位はバラバラであるが、換算率は決まっているので相互にそのチェックは可能である。
しかし、鑑定評価の世界では、評価者のモノ差しの基準がないので、評価そのものを第三者がチェックし、その妥当性の検討や誤差の指摘はできない。
技術の世界では考えられない鑑定ワールドが広がっていたのである。
技術の世界から飛び込んだ私にとって、この世界は新世界であり新発見の連続であったが、他方、技術の世界のように検証ができないので、どこまでやっても不安の連続で、ノイローゼになりかかった時期があった。
その時に思ったのは、自分にはこの仕事は向かないのではということであった。
評価とは、つまるところ思う・思わない・良い・悪いを各自好きな数字を並べて議論するものであり、余程常識からかけ離れた数字を使わない限り第三者がその当・不当を論じたり証明することはできないものであるということである。
このような漠然とした不安定な世界は技術の世界から見れば容認できないし、まして技術革新とは縁の遠い世界である。
まがりなりにも数百分の一ミリの精度を要求される世界を見てきた私にとって、受け入れ難い世界と感じていたのも事実である。
結局2年の実務経験で鑑定世界に別れを告げ、土地区画整理コンサルをやっている公益法人に転職したのだが、数年を経ずしてまた鑑定世界に戻ってしまった。
それが良かったのか悪かったのかは今もって良く解らない。
生活できたのだからそれで良しとするか、それとも幾ばくかの良心を切売りしたことに対して自責の念を持ち続けるかは、今暫く答えを出せないでいる。